玉子の流通について
産業社会学部産業社会学科 4M#### 久間康弘
序文
ここでは、自分の養鶏に対しての位置付・取り組み方を、簡単に紹介する。 反大資本_海外依存の増大 エネルギー_大型化・合理化の危機 工業化への反省_供給過剰※総福祉の低下が挙げられる。 産業革命以降の社会は、あらゆる面で著しく発展した。特に科学技術の発展により新たなエネルギーを得て生産性を増大させる事ができ、社会の工業化が行われ始めた。二つの大戦後、それにはずみがついたかのように拍車がかかり、我々をとりまく社会状況は目まぐるしく変わっていったのである。 養鶏も例外ではなかった。鶏卵や鶏肉の需要が増えるにつれ養鶏が経済活動、つまり商売として成り立つようになり、工業化(合理化)のすえ生産性は確実に向上していった。
1章 今の食をめぐる状況
【食と社会】
人類の文化の始まりは「食」から始まったといっても過言ではあるまい。技術・道具は「食」を得ることにその源を発している。
「食」のことを考える場合、まず考慮しておかねばならないことに、次の相対している二つの考え方がある。
それは「食」は非社会性を持つ最も個人的な営みの一つであるということと、逆に、社会に大きく関与しており、それぞれ影響を与えるし与えられるものだということである。このことは言うなれば、食べることは生活を意味しているということだ。
これらのことが分かっていれば、問題の捉えどころやつかみ方は、はっきりしてくるであろう。すなわちこの考え方は、食というものは人間の根源的かつ心理的部分から繰り出してきて現れてきたものと考えられ得るし、また経済的な面から視点を据え特徴づけたとして定義することもできよう。経済的な面からは、後に社会との係わりあいの度合い等から見ていくことにして、まずは人間の内面的な部分の仕組みから探ってみることにする。
思うに、人間の活動の基盤を成すのは、人間の心理的作用である「好み」のことと関連しており起因していると考えた。なぜ好みが発生するのか、調べてみて驚いたのは、なぜ好きかという心の働きの本質の部分が解明されていないことだ。それでも統計などにより、特質をある程度知ることができる。以下、次の通りである。
「好み」の持つ特色
1,万人に共通した部分と、人によって異なる部分がある。
2,個人の心を写しだす鏡のようなものである。
3,社会や時代を反映している。
4,好みは文化に規定される。嗜好は文化の重要な一部である。
5,識別こそが嗜好の前提である。
このように、より内面的な誘発が「食」を規定していることは、以外に論じられていないため蛇足とは思ったが付け加えた。食生活の向上は単に目に見える部分をのみ変えてみても、心という本質的な部分を解明することなしには不十分であろう。
【社会との関連について】
大衆という概念が消え去り、今や分衆の時代と言われ、更には個衆とさえ言われるようになりつつあるのが、今の大きな社会動向の特徴である。
消費動向やテレビ番組がそのことをはっきりと現している。たとえば冷蔵庫は、一昔前に比べ商品選択の範囲が広がった。白ばっかりであったカラーに赤や紺など、様々な色使いが見られるようになった。テレビドラマは家族物のドラマが消え去り、キャリアウーマンなどのいわゆるシングルスを題材としたものに変わってきた。家族像を捉えることができなくなり、またあまりにも現実離れした生活の虚構性は、視聴者に飽きられテレビ離れを引き起こしたり、ニュース・ノンフィクションのような速報性・現実性の高い番組が好まれるようになってきている。そしてその内容は、株式投資・各地の風景・流行の音楽など、統一性を欠いた無関連性の集まりである。このようなマスコミの刹那的であり連続性を欠く面などの食に及ぼす影響も無視できない。
これが大きな社会のうねりである。さて、このうねりは食をどう取り込んで行ったか。
食事は、家庭で調理してそれを家族全員が一緒に食べるというのが従来の食事の基本パターンであり、家族とは生計を共にするものであった。食事をするためには調理と後片付けが必要であり、これは食事という家庭での仕事の一つであった。かって食事という家庭の仕事(労働)は主婦が担っていた。しかし、社会化がすすむにつれ、この食事パターン(食事にまつわる一連の仕事等)に大きな変化が起きた。
それは、50兆円といわれている食品業界の構造(外食産業25兆円、小売業29兆円)をみれば一目瞭然である。いうまでもなく家庭外食事(外食)の増加と家庭内食事における調理食品・サービスの増加である。(1)
最近、外食産業は飽和状態の中、シェア争奪の過当競争が続いている。しかしながら、着実に伸びているところもあり、まんざら飽和状態でないらしい。というと、その伸びは家庭での食事機能の低下ないし減少、ということにつながるといえよう。
また、調理・加工食品も大きく増えている。それは、納豆、ジャム、といった類いのおそろしく時間や手間のかかるものではなく、煮たり、切ったり、焼いたりなどの素材にちょっと手を加える、従来家庭内で行われてきた仕事の手間を省くような性格のものだ。インスタント食品、冷凍食品、レトルト食品、さらには総菜の宅配までもが現れている。これらの中には奇抜さを狙い、本物志向と銘打ったオリジナルのカラーを出したり、イタリアやフランスなどの国のイメージを借りて、感性を刺激するような違いを売りとしているものもある。
しかしながらこれらの商品等は、根本的なところの、つまり、これから述べる「個人と社会」を捉えていくには、なんら解決すべき手段がないように思う。
というのは、これら一連の商品群及び商品は表面を取り繕ったものばかりで、現象として現れているが、それを以て食の向上とは言い難く、ただいたずらに感性を刺激することに終始しているからだ。
外食や調理加工食品の増加は、つまるところ家庭における食事機能(労働)の社会化がますます強まっている事を意味している。このことは全く異質の社会構造に変わろうとしているとも言え、家族・家庭という考え方をも根底から揺るがすことにもなる。
そして社会化の波が生活に及ぼした影響は、食の生産手段を持たぬ都市部ばかりではなかった。換金作物に重点を置いた栽培方は、やろうと思えばできる農家の自給自足をストップさせ、安いし楽なため野菜などを購入する農家が増えている。また悲惨なのは農家の子供達である。親が兼業化で働きにいったり、農作物の収穫期で忙しくしている時など、どうしても夕食が遅れがちになる。やはりお腹は空くので、間食にスナック・フードなどの菓子を食べる。すると、いざ夕食を食べる時になって食がそれほどすすむとは思えぬ。この子供がいかに不健康か判るであろう。農村社会こそが、より顕著に影響を受けていると見てよいであろう。食生活における家族の機能の社会化は、いまや非農家、農家を問わず相当な勢いで進んでいる。
食事の手間が省かれ、家庭における食事の生産力は向上した。また従来、手間ひまがかかり家庭ではまずお目にかかれないようなものでさえ、口にすることができるようになった。料理が多彩になり豊かになった。これは食事の社会化・産業化の結果である。
【工業化へ】
社会化・産業化は、すなわち「食」の工業化・商品化を推し進めることになった。ここで問題となるのは、わからなければ良いという“無責任”な「食」を生み出したことだ。生産者の消費者への、消費者の生産者への、そして家庭内での無責任は、互いの結び付きさえも減退させた。
この無責任の構図が端的に現れているのが、大多数の国民が不安を感じている《1》すこぶる低い日本の食糧自給率であり、過度の輸入依存は国内農業の衰退を招いた。
人間の根源的な営みである「食」は社会化されつつあるが、社会はより個の方に向かっているという事に、大きく矛盾した考え方がある。
【「食」を定義する】
さてこのようなことを踏まえたうえで、「食」を定義してみよう。工業化が進み、あまりにも無責任な「食」が増えた今、求められるのは、責任ある食を生み出すことではないか。確かに社会化による工業化は、生産を増大させバラエティーに富んだ食事を可能にし、我々の食生活に貢献してきたことは評価できる。しかし、本来「食」に求められるべき大切なことを忘れてしまった。それは責任のある食を生み出すことなのだ。
責任ある食は、ただ単に生産者のみが生み出すのではない。生産者のみ捉えるところにも無責任が感じられる。ある農家では、そこの食卓に供される野菜は出荷する野菜とは区別し、農薬を少なくするなどして作られたものであるそうだ《2》。一見、生産者の消費者に対しての無責任にばかり目を奪われがちだが、少し考えればこの背景には消費者の無責任が絡んでくるのだ。
「昔に比べると、色の奇麗な野菜、形の整った野菜が増えてきました。つまり、見た目でいかにもおいしそうな野菜が、高値で取引されているんです」
ある市場関係者はそう断言する。《3》以下いかに消費者の要求する意見によって、生産体制が振り回されているかを、近頃問題になったリン酸塩《4》を引き合いにだして述べている。
市場原理によって極端に敏感になった生産者は、ちょっとした消費者の動きに過剰に反応してしまう。それが、このような形で現れるのだ。ほかにも安ければ良いという安易な基準など、消費者にも無責任だったと思える節があるといえる。
生産者と消費者、さらにその間を取り持つ流通と、相互に信頼される関係にあることが責任ある食を生み出す第一条件であろう。
次に、見た目の事と関連してくるが、これら無責任の体質が生んだ食品の中身の軽視である。
塩を例にすれば今供給されている塩はイオン交換膜塩が主流をなしている。しかしながらイオン交換膜方式によって採られる塩は極めて純度が高すぎるため(99.27%)、海水中に微量に入っているナトリウム・カルシウム・マグネシウムなどまでも排してしまう。これらの微量な成分は、海水を日干しして生成された塩には含まれており、その味は明らかにイオン交換膜塩とは異なっている。この微妙な違いこそが大切なのだ。このような配慮は合理化が進むに従って難しくなると思われる。
養鶏でも飼料に発酵菌群を加えた菌体飼料というものがあり、これなどは鶏が地面をつつく引っかく、つまり土中の微生物を必要としていることからヒントを得たものである。
以上、食はこうあるべきであろう。
1、責任をもつ
2、流行に左右されない
3、中身を重視
4、無理なく供給
《1》総理府国政モニターアンケート調査報告書「食糧の安全保障のつ いて」昭和56年による
《2》『日本の食糧が消える』MG出版 NNN特別取材班 P200より
《3》『WEEKS6月号』P27より
《4》リン酸塩で洗った野菜はきれいに見え変色も防ぐ。厚生省は昭和 61年6月に使用禁止の行政指導を行っているが、その後もリン酸 塩での洗浄は後を絶たない。
参考文献
『好みの心理』創拓社 近江源太郎
『色彩とパーソナリティー』金子書房 松岡 武
『分衆の時代』日本経済新聞社 博報堂生活総合研究所編
『食べ物の科学』NHKブックス 小島道也 伊東正 編
『いのちと農の論理』学陽書房 玉野井芳郎 他編
『いのちは海から塩』マルジュ社 谷克彦
『たべもの革命』文化出版局 毎日新聞社会部編
『畜産革命』日貿出版社 戸根木光治
2章 なぜ養鶏なのか。
食をめぐる状況を捉え、食を定義してきた。基本的ともいえるこれらの事を踏まえた上で、次に養鶏を考えてみたい。 まずなぜ養鶏に着眼点をおいたか。先に要点から述べておく。 ・その性格、規模、食品業界で占める位置など最適であると判断 ・商品経済に組み込まれ工業化の進んだ典型である。 ・産地直送の可能性 簡単に言えば、養鶏を通じて責任ある食というものを探って行こうということで、またその可能性も高いからということになる。 食を具体的な一分野に絞れば、問題の所在が明快になり分かり易くなる。が、同じ家禽類であれば豚であれ牛であれ何でもいいではないか。どれも過剰という問題で苦しんでいる。何が違うのか。【その性格、規模、食品業界で占める位置】 養鶏には採卵を主としたレイヤーと、採肉を主としたブロイラーとがある(養鶏産業は年産額が1兆円強と言われ、それぞれ鶏卵5400億円、ブロイラー 4700億円となっている)《1》。おなじ鶏でありながらこのように分化していることにも問題点が見いだされるが、この論文では全体を通してレイヤーに主眼を置いて考えてみることにした。勿論、両者にわたっている問題も少なくない。鶏卵は途中で加工行程を必要としない。食品の原料としても供給されており、その需要量の多さゆえ無視できないが、かなり形を違えるので鶏卵という一食品と捉えなくともよいであろう。ブロイラーの場合加工行程を必要とし、流通や価格面で他の畜産物同様、その構造が複雑で解りにくい。また、鶏卵と似たような性格を持つ物に牛乳がある(単に家禽の生産物であるのにとどまらず、工業化による弊害やそれに対しての消費者・地域運動など)。牛乳は「一物五価」という言葉が象徴するように、同じ牛乳でありながら幾つもの値段がついている《2》。これは、生鮮品でありながら途中で加工工程を必要とする事や、牛乳は政策が強く関連していたり、資本化が中途半端(ある意味ではその裏返しに強力ともいえるが)であることによるもので、あえて外した。むろんこれは僅かばかりの事であり、畜産物が共通に抱えている問題(過剰等)に触れれば資本化の歪みは否応なしに現れてくる。このように、鶏卵は生産物がそのまま商品になる所にその特徴がある。 養鶏は飼料を殆ど購入飼料によって賄っており、その原料も海外依存である。非常に徹底しており、当然それによる影響や併せて危機感も大きい。米の自由化に先立って、比較優位の原則に基づく国際自由貿易論《3》を敢行した試金石とも言える。 加工行程を必要としない鶏卵流通は生産・流通・消費と見て行き易い。その上、市場原理の導入や商業資本の参入が顕著であり工業化の進展もスムーズであった。その事は次のところで述べている。【商品経済に組み込まれ工業化の進んだ典型である】 産業化の進展の度合いを歴史をおって振り返ってみると、商業資本の参入が早い時期から養鶏にみられるのが分かる。さらにME(MIー CROERECTRONICS)化に適合し、その典型であるウインドウレス方式など、他の畜産に比べ工業化が先行しているように考えられる。 日本の養鶏の歴史は数千年の長きにわたっているけれども、卵、肉の生産を目的とする実利養鶏の発展はまだ新しく、明治時代に入ってからのことである。 それまで鶏といえば暁を告げる時報用とか、肉鶏や愛玩用くらいにしか用いられていなかった。明治になり、卵や肉の利用が広まるにつれて、採卵、採肉を目的とする鶏の飼養がおこり、養鶏がひとつの産業として取り上げられるようになった。 鶏卵の消費は明治10年代から国内の生産を上まわるようになり、シナ卵の輸入が行われるようになっていたが、このような傾向は国内の養鶏を刺激して鶏の飼養羽数は次第に増加した。大正末期、国内の需要の伸びに応え生産を伸ばしたが、この頃安価なシナ卵も大量に輸入され、年平均5億4000万個あまりが入ってきていた。 そこで政府は、鶏卵の輸入を防止し国内自給を達成させるため、昭和2年に『鶏卵増産10ヵ年計画』をたてた。そうして主なこととして全国5ヶ所に国立種鶏場を設置したり、奨励金を交付して鶏の改良増殖、指導奨励を行った。 この計画の結果、成鶏雌一羽当たりの年産卵率が向上して、また飼養羽数も増加し、昭和10年には鶏卵の輸入を完全に阻止して輸出さえできるようになった。(1) そして、養鶏生産の合理化が進み、産卵効率の良い鶏種の白色レグホンを多く飼うようになってきたのもこの頃からである。これ以外にも大型孵卵器による初生雛の大量生産、飼料製造の企業化、初生雛の雌雄鑑別技術の実用化等が進み、我が国の養鶏は著しく産業化の方向をたどっていったのである。 国内自給の目的は達成できたが、反面鶏飼養羽数の増加に伴い、必然的に飼料輸入の増大をもたらすこととなる。この背景にはたとえば積極的な配合飼料の使用を図ってそれを円滑にするため『保税工場法』(昭和2年、有税の輸入原料を加工・配合して飼料にすれば、無税品として通関できるという内容)が公布され、施設保税工場が昭和10年には20ヶ所程できた事などがある。飼料生産量は昭和5年の2万5000トンから昭和9年には46万9000トンへと急増した。 このようにして、戦前の養鶏は飼料基盤を海外に大きく依存して発展していたために、昭和12年に勃発した日中事変が長期化し、引き続いて太平洋戦争へと突入した長期間の戦争によって深刻な飼料不足に直面することになった。 飼料事情の逼迫とともに、購入飼料に依存度の高い大羽数養鶏は衰退し、再び農家における飼料自給度の高い小羽数養鶏の増加へと変化していった。(2)これが庭先養鶏の始まりである。 さて、なにより産業化が進展したのは戦後からであり、その進行の具合から大きく二つに分けれる。 戦後の養鶏の流れは、その経営形態から庭先養鶏、団地養鶏、大規模システム養鶏の三つに分けることもできる。しかし、産業化とそれに伴う社会状況を考えるのならば、鶏卵国内生産量が100万トンを越えた昭和38年《4》を境にして二つに分けて考えるのが特徴をつかみ易い。産業化へと一つ一つ着実に進めていた前期、そしてほぼそれが完成して鶏卵過剰という新たな問題が発生したり、そのような状態の中、ME(MICRO ELECTRONICS)化の導入等で生産規模の大型化・機械化が進められた後期という分類である。(3)昭和38年は鶏卵の国内生産量が100万tを越えた年なので、区切りよくここで分けることにした。また、その前年までの移行期間と呼べる5年間に起こった数多くの事柄が、ある程度浸透したと思える年であったからでもある。 この推移時期に、トウモロコシの自由化(昭和35年)、農業基本法及び畜産物価格安定法の制定(昭和36年)、政府による流通近代化、大型商業資本の参入などがあり、この時点を境にして生産性は飛躍的に伸長し、鶏卵過剰もぼつぼつ起こり始めてきたのである。 養鶏が他の畜産産業に比べて著しく工業化できたのは、養鶏がME化に最も適合していて、その導入が積極的に行われたからである。そして、その究極のかたちがウインドウレス方式と呼ばれる鶏の完全飼育システムである。【産地直送の可能性】 先に鶏卵の性格等のところでも触れたが、直接に供給できることは、流通面において大きなメリットである。すなわち生産者や、その生産の仕方が明確となり、生産者との交流も容易にできる。これらは実は産地直送の三原則なのであるが《5》、消費者と生産者が一緒になって食を考える産地直送の動きは、責任ある食を生み出すということを可能にする一つだと思われる。 最近の購買形態の推移を追ってみると、直接取引の割り合いが増えてきており、真の意味での食の向上が、鶏卵を通して行われる予感がする。
《1》日本経済新聞1987・9・27朝刊より《2》日本経済新聞1987・6・19朝刊より《3》リカード(経済学者)が唱えた説、国際分業を推進《4》「食糧需給表」農林水産大臣官房調査課より《5》「畜産物の消費と流通機構」P333 より
参考文献『養鶏講座1』朝倉書店 吉岡正三他『実用養鶏ハンドブック』朝倉書店 今村文雄他『畜産物の消費と流通機構』農文協 吉田寛一他編
3章 鶏卵(養鶏)をどのように捉えるか。
この章では、鶏卵(養鶏)の問題点を論じるに際し、明確な見解を示す。
【工業的方向VS農業的方向】
ここ二三年、米の自由化をめぐっての国内自給か海外依存(全てではなく一部)かの論争をはじめとして、農畜産物全体の供給から、ひいては日本の農業の意義・体制を考慮することがかなり熱をもって論じられている。(1)
しかしながら、その多くは主に経済効率をもってその指標とし、いずれがより利潤を生むか、得であるか、をのみ考慮しているように思われる。その反面、本質的な所ではなかなか良いことを言っているが、果たしてこれを実行に移すことができるかと思わせるようなものもある。
いずれにしろ、簡単には解決できないものであるが、果たして、結論を導き出すのに、必ず一つだけの解答を求める必要があるであろうか。YESかNOのような二者択一のやり方は、確かに明晰ではあるけれども、見方が狭く、一見矛盾する事柄をすべて俯瞰・肯定したうえで吟味しているようであるが、実は最初の状態から問題解決へ一歩も進んでいないと思う。
養鶏についても同様のことが言える。合理化・大規模化を進める養鶏産業界・生産者に対して、安全性を懸念し採算は良くないが自然に近い形の養鶏(より生態系に即している為このような呼び方をした)を実行している消費者運動との二つがある。
理想が自然に近い農業的方向を標榜する養鶏とするなら、現実は合理化を推し進める工業的方向の養鶏というのが今ある姿である。どちらにもその言い分があるであろうが、このままでは問題解決には至らずにただ平行線をたどるばかりである。このことは更に、生産者と消費者の間の溝を深めて行くことにもなる。
また、いかに直接食べる卵を自然なものとしても、あらゆる加工食品に原料として卵は使われており、その卵が必ずしも自然なものであるとは限らない。むしろその安さゆえ、合理化のよりすすんだ卵や輸入された卵(鶏卵)を使用しているのだ。現に昨年の輸入急増品の一番は液卵である。《1》 鶏卵が安いのは周知のことであろうが、それは全く生命の安全を度外視した合理化・大規模化によって可能となったもので、更にコストダウンを狙い輸入までもする商業資本が、安全性といった目に見えぬ所までも責任をもち得るか疑問であり信頼もおけない。
平飼いは、ケージ飼いに比べコストが35%増大するという。それに、需要が停滞しているとはいうものの、年間200万tあまりに達する鶏卵生産の総てを賄うことができようか。たとえ消費者の意識状況が変わり、安全性等を踏まえたがため、少々鶏卵の消費が減ったとしても完全に需要を満たすことはできまい。あまつさえ、同じ鶏卵であっても値が違い、その趣旨さえ異なる食の二極分化が平素化してしまう。やはり、養鶏全体が総合的に向上して行くことが一般的であり、大事なのではないか。
1985年、カーギル・ノースエイジア社が設立され、日本での配合飼料生産に乗り出した。世界の穀物貿易の25%を握るアメリカの巨大穀物商社カーギル社が、本格的にアジアでの活動を始めたのである。(あくまで〃本格的〃であってカーギル社は既に台湾・韓国など10ヶ所に飼料工場を持っている。)当面はブロイラー用飼料中心であるが、日本の畜産にとって予断を許さない事態である。
【養鶏の在り方】
これらのことを順に追っていけば、いかなる養鶏が求められるか、浮かび上がってくる。それは、
・生産限界以上に羽数を増やさない。
・生産者の顔が見える。
・生産、流通が一体となる。
養鶏の最も今日的な在り方として、中規模(5万羽程度)で、経済効率も考え、地域に密着しており、それゆえ自然の生態系にも適合していて、社会情勢の趨勢に応じてその度合いを増減できる柔軟性を持った養鶏を理想的な形として考えた。いわば、風見鶏の如き経営方針を持った養鶏である。
ただしこの考え方は、今の本流である商業資本にどっぷりつかる恐れがこれまでのやり方の中にもあったので、よっぽど注意しなければならないであろう。
また、アメリカでは中規模の経営というものが一番危なく、倒産も続出している。規模拡大によるコストダウン、小規模での家族経営と二極分化がすすんでいるのだ・・・ と言うことを考えれば、なぜあえて中規模経営としたのか。
このことは簡単だ。採卵養鶏飼用戸数が(昭和61年)日本11万《2》に対して、アメリカでは千数百なのだ《3》。アメリカの場合小規模の家族経営とはいえ、それは飼養管理技術の集積によって成立する企業養鶏である。その企業養鶏の現在での最低飼用羽数単位は5万羽で、この羽数の場合はすでに建物設備などが減価償却を済ませてある場合で、通常10万羽が最低単位であるということだ。
5万羽という数字は、合理化のすすんでいるアメリカの中で企業養鶏の最低単位というところから弾き出したのであり、換言するなら、合理的な企業化も可能な最低の規模なのである。また輸送のメリットもある。1台の大型トラックで1日1回の出荷という、まことに区切りよい羽数なのだ。《4》
この理想とする養鶏に類するものとしてオランダ式養鶏やマーケティングボード型がある。オランダ式がより合理的色彩を持っているのに対して、マーケティングボード型は地域との密着なども考慮しており、多くの点で頷けるものがあり好感が持てる。
諸先進国の鶏卵過剰には色々な方法が用いられており、マーケティングボード方式もその一つである。これは、カナダやニュージーランドの養鶏家が採用した方式であり、生産単位の上限を決め、多数の生産の場を確保しているのを特徴としている。
ニュージーランドの場合、過剰に直面し生産者が自主滅羽運動を行い、300万人の国で450万羽いた採卵鶏を300万羽とした。さらにこれを企業養鶏を認めれば1社で生産されうるとし、一律2万羽養鶏として、生産者団体による販売組織ボード(販売公社)のなかで対応した。
このように具体的な形で理想の養鶏を示してきたのだが、本当のところ何をもって理想とするかは全く考えが及ばない。先行きは暗くなるばかりのようである。
《1》日本農業新聞87・1・1(1987 1 ̄10月)
《2》「畜産統計」による
《3》鶏の研究1987・4号p88
《4》A養鶏農場(福岡県)ここの生産羽数に基づく
参考文献
『日本型畜産の課題と実践』明文書房 P45 畜産経営問題研究会編
『アメリカからの警告』日本放送協会P50 ̄51 NHK特集編
『畜産物の消費と流通機構』農文協 吉田寛一 他編
4章 鶏卵(養鶏)の問題点
鶏卵(養鶏)が問題とすることは、生産側、消費側と捉える視点が変わることにより各様異なってくる。ここでは何故3点に絞ったかを論じて、3点をうまくつなげる。
4章 鶏卵(養鶏)の問題点
鶏卵(養鶏)が問題とすることは、生産側、消費側と捉える視点が変わることにより各様異なってくる。その中から、責任ある食をうみだす上で重要な次の〈飼料穀物の大幅な海外依存〉〈鶏育成の合理化〉〈鶏卵の生産過剰〉の3点に問題を絞った。個々が独立して在るのではなく、一つの大きな流れの中で目立つ箇所を取りだしたのであり、互いに密接に関連している(1)。
【海外依存に頼る日本の養鶏】
採卵、採肉を問わず、養鶏はほとんど飼料購入により成り立っている。僅かながら自家製の飼料を使っている所もあるにはあるが、それでも一部は購入に頼っていたり、購入飼料をベースに改良したものを使ったりで完全自給とまではいかない。
この殆どの養鶏所が購入する飼料とは、配合飼料と呼ばれ飼料会社の手によって製造されている。
とうもろこしは配合飼料の主原料となるもので《1》、その4割強も使用されており畜産業には欠かすことができないが、わが国の生産量はごく僅かで、自給率は0.014%(1985年)にすぎない《2》。
とうもろこしは輸入中心であり飼料工場は、輸入に有利な鹿島・志布志湾・神戸などの海岸沿いに立地している。穀物を搭載した貨物船が巨大なサイロに直接横づけされて、更に隣接する飼料工場で加工される。
昭和30年半ばまでは、小麦の生産がまあまあ行われていたため、製粉業から派生した飼料メーカーが内地で営業していた。国鉄は小麦の集散に最も適している輸送手段であった。
日本は全体の穀物自給率の低さは他の国に例を見ないほどである。その中でも飼料用穀物の自給率の低さは他を圧倒して目立っている。 この海外依存の体勢は、大きく次の2つのことによりその勢いを増した。
一つは日本を余剰農産物の将来の有力な市場と睨んだ穀物メジャー、およびアメリカ政府の意図したことであったこと。このことは、後にアメリカ農業の歴史を振り返って考えて行きたい。
二つめは、戦後、工業力を主幹とする富国策をとった日本政府の方針であったこと。しかしながら、今日の自給率の低さをただ政府をつかまえてのみ論じているのではなく、たとえば、広くそのように至った社会の趨勢とか、経済構造といったところまで考えをめぐらすべきであろう。
アメリカは飼料穀物の主輸入国であり、依存度を高めていっている。(2)
それでは穀物の主輸入先たるアメリカの穀物生産、農業とはどのようなものか。
今手元に日本版 『NEWS WEEK』(1987・7・9)がある。これには“飽食と飢餓”とタイトルがあり、世界の、そしてアメリカの農業が問題としていることが載っている。今世界農業は、一方では農産物の過剰による財政破綻、そしてもう一方では深刻な食糧不足に悩まされている。農業大国であるアメリカが抱える問題、それは農産物の過剰である。そしてアメリカでは農家に対する補助金や備蓄に対する支払い等の財政支出が大幅に増加している。というわけで、なぜこのような状態に至ったかを考察しつつアメリカ農業を探って行こう。
【アメリカ農業とその歴史】
アメリカの農業の特色は大きく三つある。1:大規模な企業的経営 2:機械化農業 3:適地適作であることだ。歴史の流れや様々な要因が複雑にからみあい関連しあって、このような特徴を形成してきたと言えよう。
これらの特色からも分かるように、アメリカの農業は商業的かつ企業的である。農業活動は、単にアメリカ国内への食糧供給のみにあるのではなく、輸出することを前提とした知識集約型産業として成立しており、また行われているのであり、それゆえに産業としての創意工夫が至るところになされているのである。
このことは、アメリカの食糧経済の工業部門を飛躍的に伸長させ、アグリビジネス(農業関連企業)を派生させその増大を招いた。
過去を振り返ってみると、1800年代の初頭においては、アメリカはまだ農民の国であった。1840年頃になっても、労働人口の約70%が農民であり、農産物の大部分が家族の自家消費に向けられていた。また(南部の奴隷制に拠った商業的農業は例外であるが)アメリカ農業で優位を占めていたのは、小規模な自営農と小作農であった。彼らは農耕に必要な農機具の大部分を製造しあまり市場向け生産を行っていなかった。
しかしながら、次第にアメリカ経済の成功法則ともいうべき、利潤蓄積という原理が浸透してきてアメリカ農業は商業化へと進むのであった。
フロンティアが西漸するにつれて、銀行業者とそれに協力する土地投機家は、新しい移住者に先廻りして安い価格で土地を買い占め、次にそれを売却しては高利潤を上げていた。この初期段階で借金を背負った多くの入植者・農民らは、商業向けの農業をやらざるをえなくなっていたのである。重い抵当債務につながった土地所有形態が発生し、自分たちだけの自給に必要とされる以上に、農産物の生産を始めることになる。債権者に負債を償還し、また自分達の生存がかかっている土地を手放さないようにするためには、どうしても換金作物の生産が必要だったのである。
このほかにも工業化の結果、都市部に人口が集中し、新しい食糧需要が生まれることによって、農民はますます都市市場向け農民生産を行うようになった事も一因としてある。そしてこのことは農業の商業化以外に、都市と農村(社会分業が極端に現れたかたち)という新たな問題にも係わってくるのである。
農業は自然に左右されるものである。工場で生産される製品のごとく、先行きを見通しての生産管理や何らかの方策を打つことはできない。このしわ寄せは作り過ぎても不足しても農民にふりかかってきたのである。
作った農産物は、大多数、消費者の多くいる都市部まで運ばねばならない。当時のアメリカ農民は、農産物の輸送手段を持たず、そのためこの頃から発展してきた鉄道や、運河や河川による輸送をするには、これらを牛耳る鉄道会社、運河シンジケート等に依存せねばならなかった。彼らの力は徐々に強まって次第に農民を圧迫していく。農民は市場向け出荷の収益性を上げるため、ますます作物の増産を余儀なくされるような圧力を受けることになった。そして生産性を上げるため機械化が進み、生産のため何らかの別エネルギーを必要とするようになった。こうやってこの頃から既に、アメリカでの穀物の過剰生産は始まったのである。過剰は恐慌の引き金でもある。
このようにアメリカ農業は借金しながら機械化をすすめ生産性を高めてきたのであるが、その影響を穀物の輸入というカタチで日本が受けているという状況である。そしてそのマイナス面をも輸入しているといえる。
《1》鶏の研究1987・8月号P135 配合飼料の成分は4章(3)を
《2》日本国勢図会p192
参考文献
『食糧支配』
『アメリカの農業』筑波書房 農協中央会編 59・3・31
『アグリビジネス』大月書店 Roger Burbach&Patricia Flynn 62・6・ 19
Newsweek(日本版) 1987・7・9 P24~31
【ウインドウレス鶏舎~究極の養鶏】
いよいよ日本でもドームのついた球場で野球がプレイされる。この球場は通称“ビッグーエッグ”と呼ばれ、野球以外にもいろいろなレセプションなどに利用されるそうである。屋根がついたことでその恩恵ははかりしれず、天候に左右されずに予定通り試合を行えるばかりでなく、温度や風の影響からも解放され今までの野球にはなかった別の面白さやプレイが見られるであろう。弁当屋も雨で中止がなくなり、計画通りつくっても大丈夫である。
このように外界の影響を極力避け、積極的に管理・コントロールできる人工的な空間で養鶏を行うのが“ウインドウレス”と呼ばれる方式の鶏舎である。 ウインドウレス方式とはいかなるものなのか、そのメリット・デメリットにはどのようなことがあるかは、後で詳しく述べるとしてここではまずその成因から探ってみることにしたい。
戦前戦後を通じて養鶏は、コスト低減や生産性の向上を目的として、それにより利潤を得ることによって、ひとつの産業として成り立つようになった。このような背景の中ウインドウレス鶏舎は生産性を追及した究極のかたちとして登場したのである。つまりウインドウレス方式は最も効率良く収益を上げることが可能なシステムと考えて良いであろう。ではなぜ“屋根を付ける”というコストの高くつくことをしても収益を得ることができるのか。いよいよその仕組みを説明しながらその問いを解明してみることにしよう。
まず、ウインドウレス方式が従来の型と大きく異なる点は、寒暖や日照時間、風の流れなどに対して全く影響される事なく、人為的にコントロールすることで作り出した、鶏に最適な環境条件の下で養鶏を行うということだ。
産卵鶏の摂取したエネルギーのうち、約65%は体温を保ち、生命を維持するための活動、いわゆる維持のために使われている。残りの35%が卵や鶏の体重の増加分に含まれる分と、卵を産むために必要な仕事の合計、いわゆる生産に使われている《1》。維持のエネルギーは気温によって変化するので、18~ 24℃の温度で飼育すれば維持のエネルギーが最も少なくてすみ、また鶏卵重量の増加につながる。
ウインドウレス方式はもともとヒナの育成から始まった。養鶏という産業活動の一環として育雛は重要なものである。育雛の産業活動としての成立は、一貫した養鶏経営における経済効率の低さに対しての、分化による生産性の向上を考えたうえで行われたものである。 それというのは、卵用種のニワトリは採卵を目的として育成された品種であり、そのため就巣・抱卵・孵化・育雛という性質を淘汰により除いてある。この省かれた機能を補うため、その代用を人工的につくりだす必要があった。そして、その種の保存は完全に人間に依存した、人工孵化によって行われるようになった《2》。この技術の発展こそが今日における成鶏ウインドウレス舎の始まりであるといえよう。
このような理由で育雛はもはやなくてはならないものとなり、それにヒナは環境に対しての抗力が成鶏に比べ弱いので、どうしても特殊な環境づくりが必要になったのだった。
【ウインドウレスのメリット】
・消費者の要望に応えることができる。
・生産性が向上 餌のコントロールが可能となった
・遠隔地、寒冷地でも生産が可能となった。
・このほかにも悪臭や衛生環境を外部に漏らさないということがあるが、養鶏所の立地の傾向としては、住宅等とあまり関係ない場所が選ばれるようになってきたため除外した。
自然環境の影響を受けにくいこと、ひいては外乱に対して強いことは、鶏卵の年間を通しての安定した生産・供給を可能にし、なおかつ均一な品質の鶏卵を一貫して生産し続けることが可能なのである。これは商業活動を円滑にするうえで重要なことと言えよう。また、このことは最近の流通事情、並びに消費動向の変化にも関連してくる。近年求められているもの、それは高度化して行く商品管理に対応したものにほかならない。例えば、コンビニエンス・ストア・チェーンでは消費者のニーズに応えていくため、コンピューターを使って一小売店の一商品という最小の単位で末端までの商品管理をおこなっている。絶えず変わる商品の需要にあわせ、その補充や在庫のチェックをコンピューターによってスムーズに処理することで、品切れなどのユーザー側の不都合も解消するとともに、今までカンに頼っていた部分、たとえば商品の入れ替えなどもこれらの情報をもとに、より確かな営業活動もできるのである。(1)これがPOS《3》呼ばれている一連の動きである。
このシステムで重要なのは、一年を通じて波のない安定した供給をすることであり、そのため多少なりともコストが高くつくようなことになっても構わぬのである。1/2ダースでいいから毎日もってきてくれ、そのかわりマージンは1.5%よけいにあげましょうというような傾向になってきている。年がら年中、店先に同じ野菜が並ばぬ日がない時代のニーズにマッチした、というところだろう。
次に、環境操作による生産性の向上というメリットがある。昼夜の間隔を短くし、一年間にコントロール次第で300個以上もの卵を生むことも可能であるし、先に挙げたように卵1個当たりの荷重アップもなしうる。
そして、ウインドウレスの最大のメリットは舎内温度を上げ、えさ代を少なくすることである。一般に畜産経営に最も要求されることは、飼料コストの低減と家畜の完全育成ということである。現在の養鶏では飼料費が生産コストの60%以上を占めているため、いかにこれが効果的かということを物語っているといえよう。温度を1℃上げると、えさは1.2~1.4 違う。高床式ウインドウレスで冬場で5℃、年間平均で3℃温度を上げられれば、約7円は原価がかわってくるという計算もある《4》。
更にコンピューターの徹底利用の一例としてアメリカのハーブロック養鶏場を見てみよう《5》。ミシガン湖東岸のサラナックに位置するH養鶏場はおよそコンピューター化できる所はすべてコンピューターを採用しており、おそらく世界で最もコンピューター化している採卵養鶏場といえるであろう。農場は2ヶ所あり、50万羽ずつ飼養しており合計100万羽を擁している。他に15万ブッシュルを貯えることのできるサイロと、それに付随する飼料工場もあり、経営的にも技術的にも米国有数のトップともいえる養鶏場で、ミシガン州の卵の消費量の約15%を生産している。 鶏舎は一棟あたり10万羽収容で、一農場あたりウインドウレス成鶏舎5桶を保有している。場内2000ヶ所に取りつけられたセンサーは、ライン内の羽数、各鶏舎内の飼料摂取量、飼料要求率《6》、水の消費量、温度、タンク内の飼料残量、ファンの回転数などをモニターしている。飼料摂取量は10分毎にデーターを取っており、鶏の健康状態の変動のときは、飼料摂取量のスピードが変化するので、鶏健康状態もチェックして、なにか起こりそうなときは事前に防止することも可能としている。このようなことはウインドウレスでなくてはできないであろう。
またこの養鶏場の驚くべきところは、坪当たり129羽も飼育しているという集約的な養鶏であることだ。
最近の養鶏の動向として、東京・大阪などの大都市圏へ遠隔地から鶏卵の供給を行うようになってきたということがある。東京への供給では、青森が2番手であり、大阪では鹿児島が1、宮崎が4番目に多い。(2)
遠隔地からの鶏卵輸送が可能となった要因は、主に高速道路網の整備 発達・経営規模の大型化・それとこれから述べる養鶏技術の進歩が考えられる。
話しはまえに戻るが、東京への供給が2番目に多い青森は、本州最北端に位置しており、当然のことながら寒冷な気候を呈している。この地で盛んに養鶏が営まれるようになった背景には、ウインドウレス方式による大規模経営に負うところが大きい。それは天然との遮断というかたちで、温度コントロールできる人工の環境があってこそ可能となったのだ。
また、輸送コストを計上させても、結果的には卵価が安くなるこの大規模な養鶏が、いかに経済効率が良いかが分かるであろう。
【ウインドウレスのデメリット】
・電力が不可欠
・病気の被害
・微量成分の不足~何かが足りない
まず、孵卵器でかえったヒナは、完全に温度をコントロールされた育雛舎で育てられる。育雛舎はほぼウインドウレス舎である。
成鶏の段階ではその経営規模によって機械化の段階が違ってくるが、大規模化するほどその度合いを増すのは必定のことと言えよう。オートメーション化の最も進んでいるウインドウレス舎では自動給餌機、採卵機、鶏糞除去機、照明、換気装置、そしてそれらをつかさどるコンピューターと、まさに電力の供給なしには何も運営できない。電力依存によるデメリットがまず考えられる。
これは福岡のBエッグファームで起こったことであるが、1時間程度の停電をしたため、成鶏3万羽のなかの1万羽を殺してしまったことがある。電気事故の原因は、換気扇に過大の負荷がかかったためである《7》。養鶏所ではこのような不慮の事故を未然に防ぐため、自家発電やセンサー類を用いて対処している。しかし、どんなに二重三重の防御策を施しても、人為的なミスなどにより事故は起きてしまう。
これらのことは、しぜん原子力発電の事故とかさなり合ってくるように思えた。いかに先端の技術を駆使していようと事故は起こり、その結果どちらも大量の犠牲を生みだす。また、よく言われているが日本の技術は物まねにすぎないため、はた目には高度かつ優秀と映るが、内実はよく分かっておらぬまま運営しているのだ。そのため日本の原子力発電は安全装置の取回し等に不備があり、日本のウインドウレス方式はその経営規模に対して過剰投資の向がある。
ウインドウレス方式の養鶏は、経済効率を考えると必然的に大規模・高密度収容を招く。大規模・高密度収容は病気の発生を生じ易くし、病気が起こりった場合の被害は甚大となる。この結果、病気を防ぐためワクチンと消毒を行う回数が増えることになる。つまり、安全性が失われることが二つ目のデメリットである。
昭和58年、「家禽インフルエンザ」、別名“ニワトリエイズ”により、アメリカのペンシルベニア州・ウェストバージニア州で5000万羽が死んだり、防疫のため殺された《8》。こんなとき巨大養鶏場の被害は甚大なものとなる。
《1》『日本の畜産業』1986 ハイライフ出版p18
《2》『畜産ハンドブック』 講談社p86
《3》POINT OF SALES(販売時点情報管理システム)の略
《4》『鶏の研究』1987・9月号p119
《5》『鶏の研究』1987・4月号 p91
《6》 (飼料摂取量/生産物の量)
《7》『鶏の研究』1987・9月号P115
《8》『たべもの革命』 文化出版局 毎日新聞社会部編P199
5章 総括
養鶏にみる合理化を考えてきたわけであるが、理想とする養鶏とは全く合理化を否定してはいなかった。むしろ有効に用いることを望むのが大きな特色の一つである。 もちろん、合理化は公害のような総福祉の低下を招くなど、多くのマイナス面を持つ。そのような欠点があるのを承知のうえで用いるのは一体どういった了見なのか。 まず、卵の二重構造化を避けたいがためである。これについては幾つか述べてきたが、有機農業などせっかくの食品の向上をより実りあるものにしたいためである。 ただしウインドウレス方式のごとく極度の合理化は好ましくなかろう。なにかその基準でも、と考えて書いてきたのが本論である。 シベリア鉄道の暖房方式は旧態依然に石炭を使っている。今のシベリア鉄道ならば、電気やスチームを機関車から送ってもらうのも容易である。だが、これらはなんらかの拍子に、停電したりして途絶えることも考えられる。やはり安全で確実なのは石炭ストーブということらしい。このように一考した合理化であって欲しいものである。 1987年ついに世界人口が50億を越えた《1》。「世界各地を回っていると、この地球にひしひしと人口の圧力が高まっていくのが肌で感じられる」《2》 このような人口増加が各方面に与える影響は大きい。人口と食糧は切っても切れない関係にある。これから先、大多数の人口を支えるためには合理化もやむを得ないであろう。だが回復を得ないまでに自然環境を破壊し、その社会的負債が幾世代にも及ぶようなことにはならないでほしい。そういったことまで考えに含めてこそ、真の意味での合理化と呼べるのではないか。 たまごが橋頭保となって食の向上に大いに貢献せんことを切に願う。
《1》日本経済新聞1987・6・8(国連 国際経済社会局人口部による推計)《2》『地球生態系の危機』筑摩書房 石弘之
参考文献『シベリア鉄道9400キロ』角川文庫 宮脇俊三
【鶏卵生産の過剰】 鶏卵に限らず今の畜産全体が直面している問題に、生産物の生産過剰があげられる。それに追い討ちをかけるかのごとく、円高により安い農畜産物が手に入るようになってきたことから、生産者および流通に相当の変革が求められている。 1986年の1~10月の期間、輸入食品において最も急増しているのは液卵である。卵供給量の1%増加は卵価を7~8%低下させるといわれており、その影響は大きい《1》。ただし液卵の輸入は毎年4万t(殻付卵換算)程あり、これをもって円高の余波とは一概には言えないが、安価であることでつとに知られている卵が輸入急増1位ということは、来たるべき何か、価格の二重化ということを象徴しているかのように思われる。 では、過剰を減らすにはどのような手段をとればよいのか。それは生産削減か消費拡大の2つしかない。しかし、消費量の方はここ10年ほど停滞しており限界に近いと考えられうる。人口の増加も少なく、また一人当たりの消費量はこれ以上望めまい。何か消費を拡大する画期的な発明でも起こらないことには、需要が伸びるようなことはあるまい。生産調整の方はどうか。政府の指導により無秩序な生産が行われぬよう規制しているが、87年前半は前年の鶏卵価格が好調であったことから、飼養羽数の増加が起因して顕著に鶏卵過剰が起こり、価格の下落を招いた。このことからも分かるように、利益を上げるために際限なく競合する体質は、そう簡単には改められないと思われる。 ところで、先に消費拡大の発明に関連してくることでおもしろい記事がある。それは、車の燃料に大豆・菜種を使おうというものだ。《2》石油に比べ大気への汚染も少なそうであるし、よほどの天変地異がおこらぬかぎり供給が途絶えることもなさそうである。
なにか大きな消費者運動もしくは意識変革が起きてよりよい卵づくりが行われないものかと考える。それにより生産量は落ちるであろうから、これにまさる過剰対策はない。
《1》 『畜産物の消費と流通機構』P198《2》日本経済新聞1987・10・16
参考文献『たまご革命』三一書房 たまごの会編『恐慌』岩波新書 川崎巳三郎
ここまで読んでいただきありがとうございます。